祖父に思い切って戦争体験について聞いてみた夏


 ユズをはじめ文旦、小夏といった柑橘系の果物、トマトなどの野菜、お茶、室戸海洋深層水などなど、ビールの原料や副原料になりそうな名産物が豊富な割に地ビール不毛の地、高知県。酒飲みが多く、時代を切り拓いてきた人材を多く輩出しているだけに、ビール界でも風雲児的な人材が登場して欲しいと切に願うばかりだ。

 昨年に続き、今夏も家族で高知県の中村を訪れた。高知は母親の故郷である。母が里帰り出産をした結果、僕の出生地は高知県の宿毛(これを「すくも」と読める人はおそらく高知出身か、よほどの旅好きだろう)である。小さな頃から毎年夏になると帰省し、海や川で遊んだ。物心ついてから都会の真ん中で暮らしていた少年にとって、高知の片田舎で過ごす夏はあまりに貴重で眩しい時間だった。

 受験勉強に専念した高校3年以降、毎年欠かさずに行くことはなくなった。が、社会人になってからも折にふれて訪れている。鳥取移住後は、日本海から太平洋をめざす中四国縦断ドライブを含めて楽しませてもらっている。

 今年は戦後70年の節目の年だったこともあって、安倍総理による談話が出されたり、新聞やテレビなどで様々な特集が組まれていた。僕は既視感に襲われた。そう、10 年前も全く同じようにマスコミが「戦後60年」の節目を賑やかに彩っていたのだ。

 2005年。会社に入って3年目だった僕は、社会人になって初めて高知へ遊びに行った。あの夏、まだ祖父は存命だった。大正15年生まれで還暦を過ぎたあたりから心臓を悪くし、当時も透析を受けていた祖父。テレビで「戦後60年」の番組を見ていたとき、僕はあることを思いついた。残された時間は多くないかもしれない、戦争のことを祖父に聞いてみよう、と。考えてみれば、祖父の戦争体験談を一切聞いたことがなかったのだ。

 翌日の夕方、祖父の日課である犬の散歩に僕はついて行った。散歩と言っても近くの川までは車だ。川のほとりに到着すると、麦わら帽子を被った祖父は荷台から犬を降ろした。犬は喜び勇んで駆けて行き、川へ入って無邪気に犬かきで泳いでいた。河原には僕と祖父。「今しかない!」とわかるのだけど、なぜか妙に緊張した。何度も躊躇してしまい、沈黙の時間が長く続いた。が、思い切って「おじいちゃんってさ、昔戦争に行ったんだよね」と話しかけることができた。

 「ああ、満州に行ったよ」
 「へえ。当時はどんな状況だったの?」
 「…じいちゃんが行ったときは“本土防衛”が合言葉で、ろくな戦力がなかった」
 「そうなんだ」

 話を聞くと、もはや日本が勝ち目のない戦争終盤に召集されたようだった。

 「で、戦争に負けた後はどんなだった?」
 「ポーランドに送られた」
 「え?ポーランド?」

 シベリア抑留は歴史的事実として知っていたけど、ポーランド送りされた日本軍もいたなんて初耳だった。のちに母にそのことを告げたら、「私も聞いたことない」と笑っていた。捕虜生活は人道的だったというところで犬が戻ってきて、話の腰は折られた。なんとなくもう聞かない方がいいかなと判断し、それ以上聞くのはやめた。祖父が話したがっている様子だったら続けたかもしれないけど、特にそうではなかったのが大きかった。

 結局、生きている祖父に会ったのはあの夏が最後だった。短い会話でもできてよかった、と今、思う。

 これから先も戦後80年、90年、100年と節目を迎える。そして、あの戦争を体験した日本人はやがて0になる。きっと同じようにマスコミは賑やかに特集を組むだろう。僕はそのたびに、暑い河原で祖父と会話をしたあの場面を思い出すことだろう。

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