姉という戦友
郵便受けを見ると、妻宛に姉から封筒が届いていた。
ぼくの知る限りこれは初めてのことで珍しいこともあるもんだ、と思った。妻が開封すると簡単な手紙とともに、ピアスが2組同封されている。うちから送った何かのお礼に対してのお礼のようだった。手紙の文字を見て不意に懐かしくなった。ああ、こういう字を書いてたっけ、と。
うちは2歳上の姉とぼくの2人姉弟で、早々に父が亡くなったため母との3人暮らしだった(のちに母は職場の9歳下の男性と再婚し、妹が生まれる)。住まいは文京区の小さくて古いマンションの一室だった。未亡人だった母はぼくら姉弟が小学3年と1年になると、よく夜飲みに出かけた。今だったらわかるのだけど、帰宅を約束した時間を過ぎても帰ってこないことがしょっちゅうあり、ぼくはめそめそ泣いていた。そんなとき、「泣いててもしょうがないよ」と姉は平静を装っていた。年下のぼくはいつも感情を放出できたけど、年長の姉はしっかり者を演じ続けていたように思う(今思えば、この彼女の抑圧は高校以降の反抗の源泉になっていた)。
そういった優等生的側面がありつつ、見た目もかわいかったようで、姉はとにかくモテていた。姉の同級生の男子たちに呼び出されて、姉のことを根掘り葉掘り聞かれたことも一度や二度ではなかった。ぼくの同級生からも「竜くんのお姉さんかわいいよね」とよく言われた。姉は中学になると家庭教師を付けて勉強し、バスケットボール部に所属し(いわゆる女バス)、絵や工作も得意で手先も器用で、しかもとにかく要領がよかった。一方、弟のぼくは全く勉強ができず、絵も下手だし手先も不器用で、絶望的に要領が悪い。「なんで同じ親から生まれてこうも違うんだ?」とよく思っていた。
そんな優等生街道を歩んでいた姉は、高校入学と同時に一変してしまう。
自分の学力ランクから何段も下げた都立高校に入学しメイクをして髪を染めて、日焼けサロンに通い、丈の短い制服のスカート&ルーズソックスで、どこからどう見ても純度100%のギャルになった。中学のとき、彼女の友達は黒髪でいかにも真面目な子ばかりだったのに、高校の友達はもうみんな肌真っ黒のギャルで友人の見た目も180度変わったのが当時中学生だったぼくには驚きだった。
きっかけはおそらく母の再婚だろう。再婚相手と一緒に住むことになったのだけど、姉と再婚相手は全く反りが合わなかった。再婚相手の男性は義父として、ぼくら姉弟を厳しく管理しようとしていたけど、これは思春期の女子の反感を買うだけだった。夜遊びも激しくなり、姉を家で見かけないことも増えていった。ぼく自身も高校に入ると、世界の広がりと反比例して家の位置付けがどんどん小さくなって、ほとんど姉と会話をしなくなった。
ぼくが大学を卒業し、文京区の家を出ると姉は年に何回か顔を合わせる程度の存在になった。そういう意味ではぼくら姉弟の間には20年を超える空白が横たわっていると言っても過言ではない。まあ、異性の姉弟なんてどこもそうなのだろうけれど。
お互い結婚し、ぼくは東京から鳥取に移住し、姉は4児の母となり、ぼくは2児の父となった。ごく稀に会うだけとなった姉は今、高校に入学する前の優等生だったときに戻っているように見える。感情を表に出すぼくに「泣いても無駄だから。私は寝るね」と言い放った、あのクールでしっかり者で何でも器用にこなす姉の姿が重なる。
昨年の夏のある夜のこと。姉と母とぼくの3人だけで酒を飲む機会があった。そんなことは初めてだったかもしれない。ぼくら姉弟は40代になり、母は60代になったけど、文京区の小さなマンションで3人暮らしをしていたぼくらが家族を作って集まって、何だか感慨深かった。この3人が原点なんだ、と再確認できた気がした。
父が亡くなった日の話題のとき、保育園年少のぼくがうっすら記憶していた光景と年長の姉の頭の中にあった記憶が一致したことがあった。そのとき、この記憶を共有している姉は実はかけがえのない存在なのではないか?と遅ればせながら気付かされた気がした。ぼくの人生の初期段階の重要な部分を共有しているのは姉をおいて他にいないのだ。
平々凡々と子ども時代を生きていた人たちに比べると、ぼくら姉弟は正直に言ってなかなかに過酷な環境を生き抜いてきたなと今思う。幼少期をニューヨークで暮らし、日本に戻ったら父が亡くなり、母が再婚し父親違いの妹ができる…激動の幼少期と10代だった。そういう意味で姉はきょうだいでありながら、戦友という感じがしなくもない。
数年に一度でいい。また一緒にお酒を飲みながら昔のことを話したいなと思う。厳しく思えた小さい頃のエピソードも姉と振り返れば、楽しい思い出になってしまうのではないか。そんな気がする。