1996年に高1時代が過ごせて絶対的に幸せだった3つの理由


 1980年生まれの僕は、1996年の春に高校へと進学した。あれからちょうど20年が経ち、ある思いを深めている。それは、15歳から16歳という10代ど真ん中の多感な時期が96年という時代と重なって心底よかった、というもの。3つの観点から力説したい。
 
 
 

理由1 音楽がよかった!カラオケも盛り上がった!

 自称「90年代JPOPの申し子」としては、96年の音楽は最高である。「出発」という意味のglobe「DEPARTURES」が1月1日にリリースされたときから、それは約束されていた。「でも、小室音楽だけじゃん」とディスられがちだが、96年のヒットチャートを見ればわかるように、ミスチルやスピッツ、サザン、久保田利伸ら本格派のミュージシャンの曲が年間TOP10入りしているのである。今のアイドルずらりの状況とは一線を画す。

 96年に関して言えば、一番売れたアイドルは14位に「あなたに逢いたくて ~Missing You~」でランクインした松田聖子である。次は28位のSMAP「青いイナズマ」。小室とアイドル、バンド、アーティストがバランスよく登場したのが96年の特徴だ。良質な音源がリリースされるとどうなるか。カラオケが俄然盛り上がる。

 高校入学から2、3カ月が経過した頃だっただろうか、クラスの女バスの子たちとカラオケに行くことになった。女バスと言えば、10代男女のヒエラルキーの頂点近くに君臨する存在だ。僕のような星新一上がりの冴えない男子が近付ける相手ではない。だが、カラオケで女バスの一人が「SWEET PAIN」を入れたのを僕は見逃さなかった。マーク・パンサーのパートを歌うことで盛り上げることができたのだ。あのときほど、夜な夜な家で一人、姉に「うるさい」と罵られながらもマーク・パンサーのパートを練習してよかったと思った瞬間はない。

 冴えない男子でもマーク・パンサーさえ練習すれば、スポットライトを浴びれた。モテない男子でも「恋の奴隷」という曲さえカラオケに入れれば、Hな映像が見れた。それが、96年なのである。なお、「SWEET PAIN」の「♪オフィスに響くよ ちょっと待って~」という歌詞は、木村拓哉やラッスンゴレライに連なる「ちょっと待って系譜」の先駆けとしても記念碑的価値を持つと僕は思う。
 
 
 

理由2 ケータイがなかった!ポケベルが奥ゆかしかった!

 当時、ケータイ電話はまだ一般的には普及していなかった。では、70年代80年代に青春を過ごした若者たちと同じかというとそうではない。僕らにはポケベルがあった。ドコモと東京テレメッセージが覇権争いをしており、僕らは否応なく選択を迫られた。ミーちゃん派かケイちゃん派みたいなものである。

 96年は「0840(おはよう)」といった文字だけで伝える時代が去り、「11」で「あ」といった具合に文字でメッセージが伝えられるようになり、その文字数も少しずつ増えている頃だった。

 テレメの場合、頭に#2#2を打つことが「数字から文字に切り替えてね」という合図だった。ところが、馬鹿者はそれを忘れる。また、単純に打ち間違えることで数字の羅列が送られてくることが多々あった。教室の黒板では頻繁に誰かのミス発信の羅列が板書され、周囲の者がそれを解読するという光景が日本中で繰り広げられた。

 この時期、僕はクラスメートのお姉さんの後輩を紹介してもらって、2対2の合コンをしたことがあった。場所は聖地バーミヤン、相手は女子高に通う女子だった。ドリンクバーと「とりあえず3種盛り」で僕らは盛り上がった。そして、一人の子とベル友になった。「ベル友」である。声に出して読んだら恥ずかしい日本語TOP5には入るだろう。

 彼女は僕より朝が早く、当時は毎朝目が覚めると彼女からのメッセージがポケベルに必ず入っていた。確か40件ほどしかメッセージが保存できず、メッセージが消えてしまうのが切なくてノートに逐一メモしていたのは我ながら黒歴史過ぎるが、ポケベルの不自由さとともに愛おしさも覚える。
 
 
 

理由3 お酒の規制がゆるかった!ビールが飲めた!

 3つ目に、96年当時は高校生でも酒が飲みやすかったことを指摘しておきたい。某カラオケチェーンのU広場では夜の時間に1時間680円の飲み放題をやっていたけど、余裕で酒を注文できた。U広場の前に交番があって慌てたものの、開き直って泥酔状態で警察官に「おやすみーー!」と声を掛けても苦笑いされた程度だった。

 某大手コンビニのSブンEレブンでさえ、高校1年の僕らに何の疑いもなく酒を販売してくれた。当時、新島から来ている友人が護国寺の寮住まいだったので、僕らはSブンで酒を調達し夜な夜なそこで宴会にいそしんだ。

 当時、僕はまだビールが美味しいとは思えなかった。だが、サントリーのカクテルバーや焼酎のCCレモン割りといったものには堕落せず、痩せ我慢的にビールを飲み続けた。そのおかげで今がある。甘い酒を飲む男は軟弱だという価値観も割と生き残っていた。まさにビールへの「愛だろっ、愛」だった。

 失恋した友人が酒を飲み過ぎて部屋でリバースしたこともあった。優しさではなく、淡いリバーススメルに包まれながら眠ったのはいい思い出だ。麺や肉。ある意味、目に映る全ての吐しゃ物はメッセージだった。狭い部屋で適当に眠り、目が覚めると頭と鼻にSWEET PAINが走っていた。二日酔いの身に朝の日差しはきつかった。
 
 
 
 なお、96年は年の瀬に猿岩石の「白い雲のように」がリリースされて幕を閉じる。僕らが過ごした1996年は風に吹かれても決して消えず、記憶の底に留まり続けている。絵に描かれた白い雲のように。