超能力者の廃業と妹の誕生


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 年末に母と妹が鳥取にやって来た。妹は初の来鳥(こういう熟語があるのだ)。彼女が20歳を過ぎて初めて会ったので、酒を酌み交わすことができた。あの日からもう20年以上か…しみじみしてしまった。
  
 
 
 調べてみると、妹が産声をあげた1994年11月26日は土曜日。妹は日付が変わる少し前に生まれたので、26日の夜は慌ただしかった。そうそう、週明けの月曜からは学校の期末試験が控えていた。

 僕は日本のどこにでもいるフツーの中2だった。母親が臨月を迎えた妊婦だったこと以外は。その日、今から考えると驚くべきことなのだけど、母親は仕事に出ていた。そして、職場から帰ってきておでんを作ってくれていた。これも今考えると、「お前が食事くらい作ってやれよ、竜広少年」と思ってしまう(残念ながら僕が包丁を持ち始めたのは20代の半ばだった)。

 2歳上の姉は当時、高校1年。どこかで遊んでいたか、バイトでもしていたのだろう、いなかった。妹の父(回りくどい言い方になるが僕の実の父ではないため)も当時、旅行関係の仕事をしていて家におらず僕と母の二人きりだった。この日、あるテレビ番組が世間の注目を集めていた。それは、日本テレビの「スーパースペシャル94」。メディアを賑わせていた超能力者、高塚光氏が「今日で超能力者を廃業する!」と宣言。「最後のテレビ出演」と銘打たれていたのだ。

 ブラウン管の向こう側で超能力者の男は、「今からテレビの前の皆さんに気を送ります。私の言う通りのことをしてみてください」と言って、軽く指を曲げた両手同士を近付けたり、離したりしていた。一切疑うことなく、僕は彼の真似をしていた。すると、彼の言うように指先が熱く、ビリビリしてきた。「ねえねえ、すごいよ!」。話しかけるも母は上の空。「何か割れた?」と疑問を抱いている。ピシッという音がしたらしい。その後、母はトイレに籠って出て来なくなった。しばらくして母は言った。

 「ハスイしたみたい」。
 「へ?」。

 中学2年の男子が「破水」なんていう言葉を知っているわけがない。それでも、ただならぬ状況にどうやらお産が迫っていることは理解できた。出産予定日は3週間も後だった。超能力とお産の前倒しは関係があったのだろうか。言われるがままに荷物をまとめ、母と僕はタクシーで病院をめざした。鍋の中のおでんをそのままにして。

 分娩室の前で落ち着きなく時間をやり過ごす男。よくドラマなどで見るシーンだが、僕は弱冠14歳でそれを経験した。高齢出産ということもあったし家では尋常ではない様子だったので、僕は母が死ぬかもしれないと本気で心配していた。だが、中2の息子ができることは何一つない。病院のスタッフと母に促されるままに、一人で帰宅することに。タクシー代を預かっていたけど、もったいないし何となく興奮を鎮めたかったので寒空の下、徒歩30分の道のりを歩いて帰宅した。夜空にオリオン座がはっきり見えたのを記憶している。妹はその日のうちに生まれていた。
 
 
 
 僕が実家にいた間、妹は赤ちゃんであり、幼児であり、幼女だった。それが今や看護師の卵。20歳も過ぎ、いつの間にやら21歳。そりゃ、自分も14歳からきっちり35歳になるわけだ。今回の来鳥では2晩とも酒盛りをして過ごした。ヴァイツェンやIPA、レッドエールなど僕は奥深きビールの世界の一端を見せようと色々なビールを飲ませた。が、どうやらあまり口に合わなかったようである。ウォッカのグレープフルーツジュース割りの方が美味しいとよく飲んでいた(実のところ、妹は僕よりも飲めた…)。

 まあ、何を飲むかなんてどうでもよかった。あの日、産声をあげた小さな命と楽しく酒を飲む。なんて人生は素晴らしいのだろうと思った。超能力なんてなくても。息子と酒を酌み交わす日も、今から待ち遠しくてたまらない。そのときは、ヴァイツェンやIPAで乾杯できたらやっぱりなおいいなと思っている。