「美味しゅうございました」アレルギー


 耳にすると体がゾワッとなる言葉がある。

 以前、いかにもトレンドとは無縁のおじ様に「そりゃあ、びっくりぽんだ」と言われたときや、「じゃあ、いつに…」という会話になったら必ず間髪入れずに「今でしょ!」と半笑いながら言い続けた人がいてゾワッとなった。もちろん、このゾワりは古くなった流行語に限らない。これまで友人や知人たちが「ほっこり」「顔晴る」「ドルチェ」にそれぞれゾワッときた、と言っているのを耳にしたことがある。

 他の人は「え?別に普通の表現じゃない?」と思ってしまうこともよくある。どうやら個人差があるようである。僕の場合、あまり共感を得られないかもしれないけれど「美味しゅうございました」という表現がゾワッとする。昨今、SNSで料理やビールの写真をアップしてコメントをし、最後に「美味しゅうございました」で締める人が結構いる。そのたびに淡くゾワッとしてしまうのだ。

 一体なぜなのだろうか。

 まず、そこは「美味しかったです」でいいところである。あえて「美味しゅうございました」にする意図は何か。この表現は丁寧語だけど、丁寧さをプラスしようという意思よりも凡庸な表現をズラそうという意思が見え隠れする。そこには「ストレートを投げない=変化をつける=面白い」という安易な誤解がある。全くの逆である。僕は高校のとき友人が写真撮ってと女子たちにカメラを渡され、「じゃ、撮るよ。はい…ズーチ」と言って場の空気を凍らせたのを目撃したことがある。
 もしかしたら「美味しゅうございました」は当初、「岸朝子かよ!」というツッコミを待つボケ的ワードだったのかもしれない。だが、今や岸朝子要素は弱まり、安易に語尾を変えているだけのズーチ用語として僕は見ているのだろうか。




 そう、ズラそうとしているわりには一般的な言い回し過ぎてズレてないことが気になっているのかもしれない。言わば、「美味しゅうございました」は変化球寄りのストレートなのだ。これは光GENJIで言うところの「かーくんよりあっくんの方が実は多数派」現象に近い。ズラしたいならしっかり変化球を放れ、佐藤寛之を選べ。この静かな怒りがゾワりとなって僕の体を蝕んでいる可能性がある。

 他に考えられるのがバランス説だ。つまり、「美味しかった」にしないのは、美味しいものを食べた幸せな自分を「美味しゅうございました」と軽くすべらせて痛めつけることでバランスを取ろうとしているのでは?という仮説だ。だが、やはりそれではぬるい。ぬるさに対して自分は反応しているのかもしれない。もし、「今日はフレンチのフルコースでした!」とか「シエラネバダの飲み比べして最高でした!」といった投稿の後に、

 #美味しかったのでささくれを無理にむきました
 #大満足だったので明日は飛び込み営業300件頑張ります

 とかハッシュタグに書いてあったら「おうおう、そんなに自分を痛めつけなくてもいいんだよ」と言いながら幸せと罰のバランス、調和の美しさに納得するかもしれない。

 一体何ゆえ僕が「美味しゅうございました」アレルギーに陥ったのかはわからない。ただ、一つだけはっきり言えるのは、こういう細かいこと言ってる俺、ワイルドじゃないだろぉ?