僕は誰もが呟くあの言葉を発しない


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 たぶん誰にでも口癖がある。

 そんなに大した話じゃなくても「ぶっちゃけ…」と頭に付けたり、そんなに自分から離れてなくても「ちょ、待てよ!」と言ってみたり。
 会社員時代に知り合った広告代理店の人は「イコール」が口癖だった。こんな特殊な単語が口癖になるのか?と疑問に思うかもしれないけど、

 「昨日、遅くまで飲んでしまいましてね。イコール、寝不足なんです」
 「○○さんがちょっと遅れるみたいです。イコール、少し待ち時間ですね」
 「そろそろお昼にしましょうか。イコール、矢野さん、何が食べたいですか?」

 使用するタイミングの正誤にかかわらず、1~2分に1回は必ず「イコール」が飛び出すのである。僕には「イコール」に憑りつかれた人にしか見えなかった。彼の頭上には太い2本の同じ長さの線が乗っているようだった。

 ビールを飲むと、僕はつい「これだよ…」と呟いてしまう。例えば、ホップがガンガンに効いたビールを口にしたいと思いながらIPAを飲むと、「そうそう、これだよ…」としみじみ発せざるをえない。その他に、人からは「まあ」が多いと指摘される。話すだけではなく、メールやラインでも気付くと「まあ」を乱発していて驚くことがある。そんな僕だが、多くの人が口癖のように呟くあの言葉はほとんど発しない。

 「お腹空いた」である。

 僕は「人生で“お腹空いた(腹減ったを含む)”を発した数少ないランキング」があったら、絶対に上位に食い込める自信がある。比率的には500日で1「お腹空いた」程度だと思うからだ。

 小さな頃から家族や友人が、先輩や後輩が、付き合った女性が…皆が皆「お腹空いた」を口にしているのを何度も聞いてきた。僕はそのたびに「一体何のアピールなのだろう?」と真剣に悩んできた。給食前の休み時間に同級生から言われても「いや、給食の時間が訪れるのを待つだけだろ…」と内心思っていたし、レストランで注文した後に「あー、お腹空いた」という人にも「俺にできることは何もないけど?」と首をかしげていた。

 たぶん僕が窓の外を眺めながら不意に「ああ、猫の肉球プニプニしてえ」と呟いたら、あなたはどう思うだろうか。「何のアピール?」「勝手にすれば?」と思うのではないだろうか。これと全く同じ気持ちを僕は抱き続けてきた。毎日、四方八方から「猫の肉球プニプニしてえ」と言われ続ける苦難たるや筆舌に尽くしがたい。

 だが、大人になるにつれて少しずつわかってきた。空腹であることと、猫の肉球をプニプニできないことは同列ではないということに。つまり、僕はあまり空腹をつらいと思わないため、「空腹なんていちいち口にすることかな」と思っていた。ところが、人によって空腹はとっても苦しいらしいことに薄々気付いてきた。

 空腹になるとやたらとイライラして攻撃的になる人もいれば、逆に押し黙る人、とにかく飴でも何でも口にしないと倒れそうになる人、動けなくなる人が結構多いことがわかってきた。むしろ「猫の肉球をプニプニできないくらいで周りにアピールするなよ」と空腹のことを軽んじていた僕の方がレアケースだったのだ。

 自身は相変わらず言わないものの、僕は少しずつ他人が発する「お腹空いた」に寛容になってきた。年とともに「お腹空いた」への度量が大きくなってきた。だが、ふと忘れてしまい、「猫の肉球をプニプニできない程度で…」という気持ちが今でもたまに頭をもたげてしまう。決してそうならないよう、僕は気を付けて生きていこうと誓う。イコール、それが他者への思いやりだと信じている。