ビルにルビ


 いわゆる“ギャルの聖地”と呼ばれ、もはや渋谷のランドマークとも言える某ファッションビルがある。略称を伏字にすると「○キュー」になるだろうか(○はあくまで○であり、「マル」と発音するかどうかについては触れない)。

 広告制作会社でコピーライターをやっている頃、数年間その○キューを担当していた。季節ごとのポスターのキャッチを考えたり、取材してフリーペーパーの文章を書いたり、館内放送のコメントを作成したり色々していた。ある時期、その某施設のフロアガイドを改訂することになった。基本的にはデザインのリニューアルだったので、ライターがやることは特になかったのだけれど、それまでのフロアガイドにはなかった「店名の読み方」が新しい冊子には加わることになった。

 その某ビルはギャルの聖地だけあって、店名表記の風紀も乱れていた。ハートが入るのは序の口で、全く読めないものもあれば、なぜかアルファベットがあちこち反転していたりと混迷を極めていた。ただ、だいたいは読めた。ハートは単なる飾りだし、文字がひっくり返っても読み方までひっくり返ることはない。が、4~5店ほどどうしても声に出して読めない店があった。社内の女性に聞いたところで「(SONGEULを見て)ソンゲウル…じゃない?」とか適当だった(正解はソジュールだった)。

 パチモノを作っているわけではない。100%公式のフロアガイドを作るのだ。にもかかわらず、僕は正解を求めて○キューに電話をかけた。意を決して。

 ○「はい、渋谷イチ○キューです」
 僕「ちょっとお尋ねしたいことがあってお電話したのですが…」
 ○「なんでしょうか?」
 僕「読み方を教えていただきたいお店がいくつかあるのですが…」
 ○「どちらでしょうか?」
 僕「はい…。一つ目なのですが、3階にバツマルバツマルって店ありますよね?あ、もしかしたらこれはアルファベットのエックス…」

 という具合に聞いていった。結構長い時間をかけて一つひとつ。おそらく僕は、「○キューに彼女と行く予定になったものの店の読み方を知らないと恥ずかしいと思って事前にリサーチしちゃってる余計恥ずかしい男」に思われただろう。だが、その「仕事」のおかげもあって無事に改訂作業は終わった。

 一口に「仕事」と言っても、その内訳は多岐にわたっている。ぽたぽたと垂れる液体のひと滴ひと滴を見つめるのが「仕事」の人もいれば、サザエさんのアナゴさんの画像を加工して唇を薄くする「仕事」をしたという人もいるだろう。きっと。おそらく100人社会人がいたら100通りの「誰もが想像できない異様な仕事」が存在すると思う。
 
 
 
 昨年、お世話になった地ビール会社で衝撃を受けたのは、ツララを落とす仕事だった。職場は標高が高く、寒い場所にあった。そのため、社有車のタイヤを冬タイヤに履き替えさせたり、雪かきをしたりと冬ならではの仕事がたくさんあった。が、席を外した後、デスクに戻り、

 「ほうきでツララを落とすこと!」

 という付箋を目にしたときは目が点になった。が、業務なのでほうきを手に裏口に向かい、人を殺せるレベルまで鋭角に尖っていたツララと格闘した。

 また、あるときは「取っ手を外す」という任務を帯びたことがあった。ギフトセットを入れる紙袋を大量購入したものの持ち手部分が不要であるため、その部分を来る日も来る日も剥いでいた。おそらくその紙袋を作った会社では、アルバイトスタッフか誰かが紙袋に一つひとつ取っ手部分を付けていたはずなのだ。手作業で。が、僕はそれを受け取ったうえで、ただただ外し続けた。おそらく僕の顔は冷酷極まりない顔をしていただろう。そこには「仕事」とはいえ、人間の存在意義を根底から揺さぶる何かがあった。
 
  
 
 あっという間にゴールデンウィークが終わった。また僕らの人生に多種多彩な仕事がやって来る。洗練された社会人たちは、当たり前のようにそれをこなすだろう。だが、傍から見るとあまりにもシュールなケースがある。もしかしたら明日、隣の同僚のパソコンを覗き見たら、真剣な表情でアナゴさんの画像を加工しているかもしれない。それが、「仕事」というろくでもなくも素晴らしき奴の正体なのだ。

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