鳥取に移住した理由


 今年の7月で移住して3年が経ったけど、いまだによく「なんで鳥取に移住したの?」と聞かれるので、ここでまとめておこうと思う。

 話は妻と付き合い始めた時点にさかのぼる。2007年のことだからもう9年前のこと。僕は27歳、彼女(現妻)は26歳だった。彼女はこの時点で、将来は故郷の鳥取に帰りたいと宣言していた。「最近、よく夢に両親が出てくる」とも話していた。最終的に移住するのは2013年なのだけど、もし僕と出会っていなかったら、もっと早く彼女はUターンしていたに違いない。

 「将来、鳥取に帰りたい」。この言葉を耳にした僕は、「老後は鳥取で暮らすのもいいね~」と返した。何の疑いもなく「仕事は人生の優先順位第一位」だと思い込んでいたので、何はさておき自分の仕事人生を全うすることが先決だと考えていたのだ。そんな価値観が変化するきっかけになったのが、やはり2011年3月に発生した東日本大震災だった。このとき付き合って3年半が経っていた僕らは、同棲して一つ屋根の下、仲良く暮らしていた。別れの予感というのは微塵もなかった。

 ただ、地震の後に福島で原発事故が起きると、妻は鳥取に一時避難するといって聞かなかったし、僕が同行することを強く求めた。僕は当時、ラジオとテレビのレギュラーの仕事がいくつかあったし、毎日のように打ち合わせや〆切を抱えていたので「俺は東京に残るよ」と最初は主張していた。ところが、彼女は鬼気迫る表情で僕の服を勝手にカバンに詰め始めたのだ。有無を言わせないその姿を見て悟った。ここで僕が頑なに東京に残ることを主張したら、たぶん僕らは別れることになるだろう、と。付き合って初めて「別離」の2文字がよぎった瞬間だった。「わかった、俺も行くよ」。仕事を調整して数日鳥取に滞在し、僕は一足先に東京に帰った。彼女はしばらく鳥取に残ってから東京に帰ってきた。




 震災が引き起こしたこの出来事は、僕の仕事観を揺さぶった。同時に、「彼女の心は東京にはない」という事実が露呈したことも大きかった。これから結婚し、子どもが生まれるだろう。心のない場所で人生を送るのは、彼女にとって苦痛なことだろうと想像した。いつだったか、「東京で子育てする姿が想像できない」という言葉を彼女の口から聞いたこともあった。

 以来、鳥取移住のタイミングを老後ではなく大幅に前倒ししようかな、と僕は考えるようになった。「放送作家」「ビアライター」という肩書きで活動し続けようと思ったら、東京を離れるということは大きな痛手になるに違いなかった。放送局もビアバーも東京に集中しているから。でも、仕事を優先するあまり大切な人を失うかもしれない事態に陥った僕にとって、仕事はもうそれほど大きな存在ではなくなっていた。「仕事よりも大切なことがある」と冷静に判断できる頭になっていた。深夜バイトを経験していただけに「元気だったら何をしても生きていけるだろう」という実感があったし、「地方で暮らすのも楽しそうじゃん」という気持ちも沸いてきた。基本的に僕は楽観的なのである。「近い将来、鳥取に引っ越そうか」と切り出したときには、「え?本当にいいの?」と彼女の方が驚いていたくらいだった。

 かくして2013年の7月、鳥取に移住してきた。翌8月には子どもが生まれ、今年の7月には2人目の子どももできた。この3年間、何度か気付いたら仕事ばかりの状態に陥っていて、「仕事は人生の優先順位第一位」の呪縛が思いのほか強いことを痛感している。意識しないと簡単に仕事に人生をコントロールされてしまうのである。幸いなことにほんのここ数年の間でも時代が変化してくれたおかげで、クラウドワークスみたいな仲介業を介さなくても職歴のあるフリーライターはそれなりに稼げるようになった。在宅で効率よく仕事ができるので、いつも家族と一緒にいられる。今は「仕事第一」ではなく、「家族と一緒にいること第一」で生活している。

 「もうお父さん、たまには外で仕事してきてよ!」。成長した子どもたちにそう言われるようになるまでは、家族のそばにい倒してやろうかな。そんなことを今考えている。