脱Twitter依存と我慢人生


 少し前にスマホのアプリからTwitterを消した。

 数年前からSNSのメインをTwitterに移してビールのこと、鳥取の田舎暮らしのこと、告知やPR、くだらないこと全てをツイートしてきた。その結果、事あるごとにアプリを開いて反応をチェックしたり、最新のタイムラインを更新し続けたり、見るたびに変わるトレンドやニュースを追いかけたりなどTwitterに振り回されていると感じるようになってしまった。そんなわけで、強制的に距離を置こうとスマホからはアクセスできないようにしたのだ。

 アンインストールしてみて不便を感じることはなく、隙間時間が充実するようになった。集中して読書をしたり、こうしてエッセイを書いたりすることもできるので、さらにしばらくは続けるつもりである。

 日々生きていると、自分だけが見る美しい風景や、小耳に挟んでしまった面白い会話、ふと思いついてしまったくだらないことが次々に現れる。かつてはすぐに見て見て!と画像を嬉々としてアップし、聞いて聞いて!と140字に内容をまとめてツイートしていた。最近はその見て見て!聞いて聞いて!の思いを飲み込んで沈黙を選ぶ日々である。そんなことを言っても山陰のビールに関するツイートは日々しているし、FacebookやInstagramもあるから完全沈黙には程遠い。これまでTwitterに集中させていたエネルギーを別のSNSやエッセイに分散させただけ。でも、分散のおかげで一つのSNSに執着する状態から脱せたのは本当によかった。

 今年で43歳になるというれっきとした中年だからか、最近はよく我慢の意味を考える。

 「いや、我慢なんてせずに生きたいように生きるべきだよ」という意見もわかるし、AIが台頭してきた現代においてはやりたいことをやりたいようにやるのが人間に残された最後のフロンティアなのかもしれない、とも思う。それでもぼくは我慢をしたい。

・毎食ご飯や麺を食べたくても1日1食だけにする

・忙しくても一日小一時間は有酸素運動をする

・しんどくても簡単な筋トレを毎日行う

・品のない言葉を使わず丁寧な言葉遣いをする

・週3日は休肝日を設ける

・飲める日も一人飲みの場合は飲んだことのないビール限定で2本までとする

 などなど挙げればキリがないほど自分は自分に対してルールを設けている。特に飲酒の制限は「我慢している!」という強い実感がある。お昼ご飯だって本当は毎食ラーメンを食べたい。でも、チーズひとかけらとゆで卵1個でほぼ毎日我慢している。夜は炊きたてのご飯を食べる子ども達をしりめにおかずだけを食す。そして、思い付いたそばから、素敵な光景を写真に収めたそばからツイートしたい、という欲求を最近は抑えている。

 一体何のために??と馬鹿らしくなるのだけど、結局のところぼくは我慢から得られるささやかな「自分の人生をコントロールしている感」が欲しいのだ。そんなものはまやかしや錯覚なのかもしれないし、実際そうなのだろう。たとえそうだとしても、自分のできる範囲でコツコツ積み上げてなりたい自分に向かっている、というストーリーがきっとぼくには大事なのである。

 我慢=善とは思わない。そもそも「我慢」は仏教用語で「煩悩の一つで、強い自我意識から生まれる慢心」を指し、どちらかというとよくない意味がもともとだった。それでも、ただただ欲望のままに流されて生きて、「こんな自分は嫌だなあ」となるのは避けたいのだ。自分は捨てたものではない!と自らを明るく肯定できるようになるのであれば、日常の小さな我慢の積み重ねくらいどうってことない。苦悶の表情は人生のスパイスだ!くらいに思って、明日もまたぼくは我慢をする。