田舎暮らしの効能


 

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 『まだ東京で消耗してるの?』という挑発的なタイトルのブログがある。去年の6月に東京から高知県に引っ越した、プロブロガーのイケダハヤトさんが運営しているサイト、というよりもはやウェブメディアで知っている人も多いことだろう。最初はFacebookで流れてきて何の気なしに読んだのだけど、ためになるので以来気になるエントリーは読むようにしている。

 最近、彼は高知市内から山間の嶺北地区に移り住む「2段階移住」をしていた。僕も30年以上住んだ東京から、いったんは鳥取県の米子市という地方都市に移住した後、人口2万を切る大山町というところに住んでいるので「2段階移住」した人間と言える。僕は小心者で“まあ穏やかにいこうや”タイプの人間でもあるので、あまり人を挑発したくないのだけど、書かれている内容には頷けることが多い。東京→地方都市→田舎。移り住むごとに幸福感は増し、消耗度合は減っているように思う。

 「海の日」は海へ行き、大山町という名前が付くくらいなので山も楽しむことができ、おすそ分けしてもらった海の幸 山の幸を食べ、田舎暮らしを満喫している。昨日は醸造所直営のレストランで大山Gビールを飲みながらのランチを楽しんだ。子どもも近所の子からクワガタを何匹ももらい、ご満悦の様子だ。

 30年以上東京に住んだ僕は、今の日常生活を「異化」している。つまり、日常生活でありながら、実は半分非日常生活を送っているとも言える。日常を脱した海外旅行先で多幸感が得られるように、今の暮らしはハッピーバブルの真ん中なのかもしれない。ただ、それでも日々の中で幸せが見つけやすいというのは、田舎暮らしの特権なのではないかと思う。新鮮な魚を食べる、広い空を見上げる、緑いっぱいの散歩道を歩く、海で戯れる、山をドライブする、心地よい風を浴びる、美味しい空気を吸う…何の変哲もない行為に幸せが詰まっている、と実感するのだ。すると、どうなるか。「非日常にジャンプしたい!」という気持ちが少なくなる。

 非日常の代名詞、旅行ばかりではない。「焼肉屋へ行こう」とか「バーで飲もう」「映画館で映画を見よう」「街に出て買い物をしよう」という諸々の欲が減っているのを実感する(それらは近所にないのだけど)。東京にいた頃は、日常は日常でしかなかった。だからこそ、上に書いたような非日常を積極的に掴みに行って、不満な気持ちを埋めていたように思う。

 僕の場合、日常が生む澱のようなものはビアバーやビアイベントへ行くことでクリアにしていた。今や行こうにもビアバーが存在しないし、ビアイベントもそうそうない。その前に「行きたい!!」というモチベーションも以前ほどではなくなってしまった。

 荒ぶるわけではない静かなビール欲は、通販での発注、自宅のサーバーで飲むドラフトビール、大山Gビール直営のレストランで飲む樽生で満たせており、そこまでの不満はない。強いこだわりのあるビールですらこうなのだから、食やファッションや音楽といった、関心がそこまでない分野では田舎にいるハンデは全く感じられない。つまり田舎では、日常生活の日常的行為から得られる幸せな気持ちが余分に得られるだけなのだ(おまけに余計な出費は減る)。

 昔は「非日常にジャンプしたい!」という気持ちが僕を駆り立てていたし、それが僕の人生を豊かに彩ってくれた。今の状態は穏やかに過ぎるかもしれない。いつかこの暮らしが退屈な象徴になってしまって、「非日常にジャンプしたい!」という気持ちが再び強くなるのだろうか。まあ、それまでは今のシンプルライフを満喫しようかなと思う。