世界で最も有名な日本人ビール醸造家がグアムにいる理由


 雲の切れ間からトロピカルな海が見えたとき、これで4度目の上陸か…と思った。まさかこの島に4回も来るなんて全く想像していなかった。

 日本から南に2500キロ、グアムへの上陸である。

4年振りの訪問を決意した経緯。

 1番最初は大学の卒業旅行だった。到着した初日に男たち一行で何も恐れずストリップバーに繰り出し、全員すってんてんになったという実に若さに満ち満ちた思い出が胸をよぎる。2度目は姉の結婚式。「グアムには伝説的な日本人ビール醸造家がいるらしい」という情報を聞きつけた僕は、自由時間にアポなしでブルワリーを訪問した。突然の礼を失した訪問にもかかわらずそのブルワーは優しく受け入れてくれたのだが、別れた後にもっと話を聞きたいという思いが募った。もちろん、ビールはとびきり美味かった。数カ月後、東京から鳥取への移住が決まっていた僕は滑り込むように成田から単身グアムに乗り込み、今度はしっかりアポを取ってみっちり話を聞いた。その模様は日本ビアジャーナリスト協会のHPに「Cheers!In Guam~ISHII BREWING CO.訪問記2013~」と題して連載させてもらった。

 記事の掲載後、程なくして僕は鳥取に移住。すぐに子どもが生まれた。「いつかまたグアムに行きたい…」と淡く願いながらも慣れない土地で慌ただしく時が流れ、その間に2人目の子どもができ、気が付けば訪問から4年の歳月が流れようとしていた。

 再訪のきっかけはこちら鳥取で醸造の修行を積む入山君という岐阜出身の友人。大学時代を過ごした姫路で独立したいという目標を持つ熱い若者だ。「大山Gビールを辞めて、アメリカで修行する」。いよいよ行動に移すときが到来し、その前にグアムに行きたいのだと言う。「石井さんを紹介してくれませんか?」。入山君が対面を希望した男こそ、グアムでビールを創る石井敏之さん(通称Toshiさん)だった。すぐにひらめいた、これは自分も行くべきだ、と。

 Toshiさんとのメールのやりとりが始まった。そこでわかったのは、僕が最後に訪れた2013年と2016-17年の状況がかなり異なるということ。小さなブルワリーではグアム島内への供給量が限界に到達しつつあるだけではなく、米国サンディエゴと新天地アセアンへの輸出も視野に入れ、さらに日米のブルワーたちの育成機関構想まで話題に上った。訪問を前に期待は高まった。

夕刻、醸造家とビールに再会。

 海外の空港でしか嗅げない独特の匂い、ぶっきらぼうな空港職員、肌にまとわりつくような少し不快な湿度の高い熱風。まさにグアムだ。

 空港から男2人でタクシーに乗り、まずはタムニングにあるブルワリーを目指した。大通りに面した位置にありながら、少々怪しげな階段を下りた場所にISHII BREWING CO.はある。貼り紙が少し変わった程度で外観はほとんど変わっていない。「こんにちは!」と入って行った先にいたToshiさんも相変わらずだった。日本からのお土産を渡し、ひとしきり話した後、ケグを繁華街タモンにデリバリーするというので車に便乗し、レストランに連れて行ってもらうことに。

 もちろん、Toshiさんが創るビール、MINAGOF(「幸福、喜び、楽しみ」という意味を持つ現地チャモロ語)がつながる店である。翌日は水曜で休養日に当たっているので、積もる話は明日にしようということでToshiさんとは別れた。

 4年振りに飲むMINAGOFは格別だった。4年前もあったペールエールとIPAに、グリーンティーIPAとホワイトIPAが新たな顔として加わっていた。スモークドポーターはたまたま店につながっておらず、Toshiさんは「明日、ブルワリーで浴びてください」と言ってくれた。合わせる料理はステーキサラダ、ハンバーガー、フライドポテトetc。至福の時間がゆるやかに流れた。



 米子から夜行バスで大阪入りしたこともあり、関空ではハイな気分に任せてYEBISU BARで朝のうちから飲んでいたため2軒目に行く余力は2人とも残っていなかった。タクシーに乗ってホテルへ。部屋のおんぼろエアコンは音だけ大きいくせに、そんなに部屋を冷やしてはくれなかった。

日米で辣腕を振るう稀有なブルワー。


 翌朝も夏だった。僕らが発った鳥取はまだまだ冬だったので、半年くらい季節を先取りしているような不思議な感覚だった。約束の時間は13時、午前中はのんびりハガニアで過ごし、お昼を食べてブルワリーへ。全米一小さいと自嘲するブルワリー案内を30分程度で終えたら、あとはもう夕方までみっちりToshiさんの話を聞いた。


 日本のお土産持参のお陰で、嬉しいことにMINAGOF全種飲み放題付きである。先に「Toshiさんの話を聞いた」と書いたが、まさに言葉のシャワーを浴び続けた。もはや独演会と言っても過言ではないくらいToshiさんは僕らに向かって過去を、哲学を、今を、未来を語ってくれた。入山君とToshiさんは今回が初対面。というわけで、話はToshiさんのキャリアから始まった。




 元々新婚旅行でピルスナーの故郷、チェコを選ぶくらいのビール好きだったToshiさん。大手不動産会社に勤務時代、渡米の折にクラフトビールに出合った。海外志向が強かったToshiさんだが、バブル崩壊のタイミングだったこともあり、海外勤務の夢が潰えた頃だった。「ビールを創る仕事をしよう」と思い立ち、ネットで調べていて偶然見つけたのが自身の苗字「石井」の石を英語にしたStone Brewing Co.だった。今でこそ全米9位の有名ブルワリーだが、90年代後半の当時は創業直後。メールを送ると快く「OK!今すぐ来い!」との返事が。創業者グレッグさんから直接マーケティングとクラフトマンシップを叩きこまれ、製造はもう一人の創業者スティーブさんと兄弟子とToshiさんの3人だけ、という修行するにはベストな環境でマイクロブルワリー経営に必要な全てを吸収した。

 Stoneで3年間働いた後、米国サンディエゴから日本に戻り、長野のヤッホーブルーイングへ。程なくしてCOO兼Brewmasterとなり、日米両国の著名ブルワリーで辣腕を振るった稀有なブルワーとなった。普通の人間だったらここで日本に安住する。だが、Toshiさんは普通ではない。「いつか必ずアメリカで独立する」という師匠達との長年の約束を果たすため、「クラフトビール不毛の地だったから」という理由でグアムに渡った。それが2010年のことだから、今年7年目である。

 Toshiさんはいつもニコニコしているような人ではない。でも、Stoneでの修行中のことは満面の笑みで話してくれた。まだそれほど忙しくなかった頃、製造終了後にブルワリーの中にもかかわらず仲間と手作りのボールでこっそり野球を楽しんでいたそうだ。見つかると拡声器でスティーブさんに怒られた、というエピソードは特に愉快そうに話してくれた。Stoneにも実に牧歌的な時代があったのだ。

 もちろん、ただ思い出話に花を咲かせていたわけではない。自身のStoneでの経験から入山君に、「修行をするなら創業間もないところがいい。全てを学べるから。Stoneも大きくなってからは完全分業制になって部門全てに精通している人がいなくなってしまった」と具体的なアドバイスを与えていた。

オーナーブルワーへの強烈なこだわり。

 話は現状の課題や未来のことにも及んだ。今、グアムでは「Guam1」というメイドインGuamに見せかけた米国本土産のラガーが販売されている。愚直にメイドインGuamのクラフトビールを創っているToshiさんにとっては虚しくなる商品が幅を利かすなか、本物のMINAGOFも少しずつ浸透し、今年すでに製造量が物理的にMAXになってきたという。ところが、悩みはスタッフがなかなか定まらないこと。昨今、「社畜」なんていう言葉が日本ではよく聞かれるけど、そんな勤労精神は南国グアムでは一切ない。サボってこっそりビールを飲んだり、連絡なく欠勤したり、勝手に辞めたりと優秀なスタッフには恵まれなかった。

 そこで、新しく工場を増設し、後継者を育成したいと考えるようになった。日本から既に何人かは接触があり、今後具体的に計画を進めていくそうだ。そこにはこんな思いもある。「この計画の最終目標は自分のライバル、オーナーブルワーをグアムやアメリカ、もちろん世界に創ることなんです」。Toshiさんはオーナーブルワーという立場に強烈なこだわりを持っている。独立起業こそ全て。一見偏っているようにも見えるけど、Toshiさんは「他人の言いなりには絶対にならない。自分のやりたいことを自分のしたいようにやる。これ、人生そのものでしょう?」と平然と言い放つ。

 Toshiさんは同世代の日本のブルワー達に厳しい。なぜ独立しないのか?という不満に満ちている。いや、もはや諦めて入山君のような若い世代に大いに期待している。若いブルワーにとっては、世界を股にかけて活躍し、「most famous Japanese brewer」をほしいままにしているToshiさんから指導を受けられる機会は貴重に違いない。日米の架け橋になるにあたり、グアムという場所は最適なように思える。Toshiさんも日本の若者が自分をステップにアメリカの醸造プログラムを学びに行ったり、メインランドに進出したりすることで「僕が日本の外にいるメリットを活かせる」と考えている。

 完全に勝手なステレオタイプだけど、「日本人は他者を思いやり、欧米人は自分勝手」というイメージを僕は持っていた。現実は逆のようである。Toshiさんは言う。「自分のことだけを考えては駄目なんです。自分達さえ良ければ、という考えはStoneには一切ありませんでした。むしろ師匠が弟子に喜んで投資します。日本ではこういうことは考えにくいでしょう?自分がいられるのはクラフトビール業界があるから、という共通した思いをアメリカの皆が持っています。僕がグアムに来られたのも、先にブルーパブを開いていたマーメイド・タバーン&グリルのオーナーが“Toshi、来いよ!”と歓迎してくれたから。ファンのため、次世代のため、ビールのために業界みんなで一丸となってより良い環境を創っていく。それが、アメリカ流なんです」

 話を聞いていた入山君はグアムからいったん帰国し、すぐにクラフトビールのメッカ、サンディエゴとポートランドに向かう。両地に知り合いがいるToshiさんはおもむろに立ち上がったかと思うと、入山君に「メールを一本書いておくよ!」と告げた。現地の関係者に日本からやって来る若者の見学を受け入れてくれるようお願いする、という意味だ。入山君が僕だけにわかるようにガッツポーズしたのは言うまでもない。

帰国の朝に届いた一通のメール。


 話の合間に何杯MINAGOFをパイントグラスに注いだことだろう。Toshi’s talk showは惜しまれながら幕を閉じた。

 個人的に感じたことだけど、Toshiさんは独立を考えて行動に移している母国の若者の訪問がとても嬉しかったのではないだろうか。同時に、開業という最も心がわくわくする瞬間をこれから体験しようとしている若者への羨ましさみたいなものも垣間見えた。表情から「そこお前、一番楽しいところだぞ!」という心情が読み取れた。

 翌日、僕は早朝の便で帰国予定だった。この日は最後の夜。昨日同様、ケグの配達に便乗する形でタモンへ。グアムの昼は長い。18時を過ぎ、19時が近くてもまだまだ明るかった。別れ際、Toshiさんは「じゃあ、可能であれば後で顔を出しますね」と言ってブルワリーに戻っていった。話はまだまだ尽きることはなさそうだった。

 午後の間中、何杯も飲んでいたMINAGOFだが、また飲める店に入って僕らはToshiさんが現れるのを待っていた。

 スマホにメールが届いていたのに気付く。残念なことに、どうやら業務店からのSOSが入って今夜は参加できそうにないという。でも、午後の間ずっとToshiさんは僕らのためだけに時間を割いてくれていた。それだけで感謝の気持ちでいっぱいだった。次にいつ来られるかはわからない。そんな思いから営業をしている店を調べて、MINAGOFが飲める店をもう一軒訪れた。最後の一杯はペールエールだった。ホップを感じつつもモルティ―で美味しかった。

 *
 
 帰国の朝。Toshiさんから意外な内容のメールが届いていた。こんな内容だ。

 「実は、沖縄にはMINAGOFを出そうと考えています。Guamと環境が似ている島だし、我々のサポーターでもある全米五軍と自衛隊の行き来も多いし、こことは直接便が運航を停止したために沖縄のファンの方が来られないからです」

 前日、「MINAGOFは永遠に日本では飲めません。飲みたい方は年中真夏のグアムまで足を運んでください。サンゴの島でゆったりと飲むMINAGOFは格別です!矢野さん、“永遠”って書いてもいいですよ」と強い口調で話していたToshiさん。沖縄だけには特別に輸出することを考えていることをこっそり打ち明けてくれた。もちろん、未来はわからない。でも、やっぱり誰もが期待してしまう「MINAGOFを日本で飲む」可能性が0%から1%くらいにはなったかもしれない。

 ただたとえ将来、沖縄でMINAGOFが飲めるようになったとしても、僕はまた必ずグアムを訪れる。これは間違いない。ビールが生まれたその現場で、最高にフレッシュなビールを飲みながら、創り手の独演会を聞けるのはやっぱりグアムだけだから。空の上、もう次の訪問が待ち遠しくなっている自分に驚いてしまった。

(了)