三十路でファーストフード夜勤だった頃


 アルファベット2文字&女優だと直接的過ぎるからか、セクシー女優と呼ばれることもある女性たち。東京にいた頃、一緒に飲む機会があって色々話を聞いたことがある。妙に印象に残っているのが鏡の話。

 その女優が仕事を始めた頃。それなりに覚悟して業界に入ったが、やはり当初は精神的に不安定だった。撮影時、一つひとつ涙を堪えながら関門をクリアしていった。リハーサルから目の前にあるものだけを見て、求められることをこなしていったそうだ。ところが、本番中(二重の意味で)、ふとベッドの横にある鏡が目に入ってしまった。そこには、あられもない姿の自分。

 慄然としたそうである。「私は一体何をやっているんだろう!」とパニックになり、張りつめていた気持ちが切れて号泣してしまったと言っていた。「頭ではわかっていたんだけど、鏡に映った自分を見て、初めて現実を突き付けられた気がしたんだよね」とサワーを飲みながら話していた。

 僕はそのとき驚いた。鏡を見て同じような思いを抱いたことがあったからだ(もちろん、その筋のビデオに出演したことはない)。とりあえず目の前にある生ビールを飲み干して、鏡に映ったあの自分のことを思い出していた。
 
 
 
 新卒で入社した会社を辞めた後、僕は国内外を旅して回り、失業手当をもらって生き延びていた。失業手当が切れるのとほぼ時を同じくして、放送作家事務所に入ることができた。ところが、いきなり仕事がもらえるわけではない。正確に言うと、仕事はたくさんもらえて忙しいのだけど、稼ぎになる仕事をもらえないのだ。でも、それは了承済みだった。まずは見習いからスタート。おそらく全ての放送作家が先輩の企画書を清書したり、リサーチをしたり、企画会議への参加などの下働きから始める。

 ライターとしての仕事もフリーランスとして受けていたのだけど、定期的に発注があるわけではなく、取材の時間を自由に取れるわけでもなかった。日中は結局何かと予定が入るので、深夜にアルバイトでもしなければ。と思ったとき、魅力的な選択肢が浮かんだ。Mマークの某ファーストフード店である。高校のときにした、人生で初めてのバイト先。10年以上振りにスタート地点に戻ることに趣を感じたのである。一から出直すいい機会ではないか、と。

 が、現実はそんなセンチメンタルなものではなかった。過酷だった。まずとにかく眠い。それはそうだ。生活が逆転しているわけではないのに朝の6時まで働くのである。一睡もせず朝の会議に直行することもざらだった。バーガーの作り方を始め、夜の仕事の進め方など覚えることは山積み。立ちっぱなしなのでひざの痛みが慢性化し、洗いもののし過ぎで両手がかぶれ常にヒリヒリしていた。さらに、ペアを組む中国人の女性マネージャーとはそりが合わなかった。当初は週5で入っており、昼間の仕事にも支障をきたしていた。眠気と言えばそれまでなのだけど、昼間も夜も常に薄い膜が体を覆っている感覚が消えないのである。

 その日は夜の打ち合わせを終えてバイトに直行した。朝の6時まで体がもつのか…そんな不安を感じながら拭き仕事をしていると、ノックの音が聞こえた。業者かなと思いながら扉の方に目をやると、鏡が目に入った。扉に大きな姿見が付いているのである。そこに映っていたのは、ファーストフードのユニフォームを着た血色の悪い男だった。馬鹿みたいに帽子まで被っている。

 その瞬間、逃げ出したいような泣きたいような叫びたいような、名前は付けられないのだけど初めての強い感情に襲われた。本当に「ウォーーーー」としか名づけ様のない感情なのである。「俺は一体何をやっているんだ…」と鏡に映った自分に激しく心を乱された。以降、週5から週2~3、最終的には週1へ。本業の収入の増加と反比例して、シフトに入る数は減っていった。結局、店が深夜営業を廃止することになり、僕の第2のM生活(二重の意味で)は幕を閉じた。

 あれこれ思い出している間に、話題はその女優がプライベートで3Pをした話に移っていた。キャッキャとはしゃぎながら、彼女はそのときの様子を話していた。僕は空になったビールのおかわりを店員に告げた。女優の前に置かれたピンク色のサワーは氷が溶けて、上3分の1くらいが透明になっていた。その夜、「♪鏡に映った あなたと2人 情けないよで たくましくもある」というglobeの曲が頭の中をぐるぐる回って離れなかった。

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