お世話になったベビーシッターと30年振りに再会した話


 そもそも、なぜビールが好きになったのか?

 この問いに答えることは容易である。父が好きだったからである。僕が5歳になる年、父は生涯を閉じた。ニューヨークとバドワイザーを愛していた父は、部屋のゴミ箱などに「Budweiser」のロゴが入ったステッカーを貼っていた。僕が物心ついたとき、父はいなかったけれど、「Budweiser」はそこにあった。

 人生でビールを飲み始めた当初は(いつかは明言しないが)バドワイザーばかりを飲んでいた。そうすることで、父に近付けた気がしたのである。
 
 
 
 数年前、小さな頃 ―と言っても本当に見事なまでの赤ちゃんの頃― に2年間住んでいたニューヨークを旅行した。初日は宿に着くのが精一杯で、2日目は自由の女神やワールドトレードセンター跡地をまわった。そして、3日目。僕は母からもらっていた2つの住所を訪れようとしていた。
 一つは両親がお世話になったらしい山田夫妻のアパート。もう一つは、一家でお世話になったウォンさん(僕と姉のベビーシッターでもある)の家、つまりは僕ら一家が住んでいたクイーンズ郊外の家だ。

 その日、タイムズスクエアの近くで朝食を済ませた僕は、まずマンハッタンの山田夫妻のアパートから訪ねてみようと計画した。マンハッタンは街が碁盤の目のようになっているので、外国でありながら住所の場所を見つけるのが容易だ。数字を少しずつでも確実に追っていくことで、時間はそれなりにかかったものの大きなアパートメントに到着することができた。まるでホテルのようだ。持っていたメモとアパートの入口に書かれた番号を照らし合わせる。うむ、ここで間違いない。

 幸いロビーに2人の警備員がいたので、僕は拙い英語で事情を説明してみた。何とか伝わったようだったけれど、現在YAMADAという名の日本人は住んでいないと残念そうに言う。住所の他に2つの電話番号(アパートの番号と奥さんが営んでいたジュエリーショップの番号)もあったのでそれを見せると、警備員の一人が何のためらいもなく電話をかけてくれた。しかし、どちらもつながらなかったようだ。万事休す。お礼を言い、外観の写真だけ撮って僕はアパートを立ち去った。
 そりゃ、30年前の住所だもの。同じアパートに住んでいる方が稀だろう。僕としては、山田夫妻のことをよく知らないながら(写真で見たことがあったかな程度)、いきなり訪れて両親のことを話したら、彼らはきっとものすごく驚くのではないかと淡い期待を抱いていたので残念だった。聞きたいこともたくさんあったが仕方ない。

 それから気を取り直して、今度はクイーンズのウォンさん宅(僕もかつて住んでいた場所)をめざした。レキシントンアベニュー駅から地下鉄に乗り、エルムハーストアベニュー駅へ。

 ちなみに日本を出発する前、母は住所と電話番号以外の情報を与えてくれなかった。それは、意地悪とかそういうことではない。母にしても駅からどうやって行くのかとか、そもそも最寄駅がどこかなんて全く覚えていないのだ。そのため、住所がエルムハーストの79番通りだったので、とりあえずエルムハーストアベニュー駅で降りればいいだろうと判断した。
 エルムハーストアベニュー駅に着くと、すぐに「82nd ST」という案内板が見えた。住所は79番通りなので、82番通りの3つ隣の通りを探せばすぐに見つかりそうだ。そう思いながら地上に出た。天気は曇り。灰色の雲が空を覆い、今にも雨が降り出しそうだった。そして肌寒い。
 少し歩くと79番通りに出た。次は52番地を探せばよいだけのはず。だったのだけれど、ここからが非常に大変だった。マンハッタンと違って、住宅地のクイーンズは住所の場所を探すのが難しい。曲がっている道も多いし、おまけに高低さもある。いよいよわけがわからない。確信をもって進んでも道が途切れてしまう。途中、運よく郵便配達員の女性に出会えたのだけれど、彼女にすら「私にはわからないわ」と言われる始末。それでも歩き続け、ときには同じところを行ったり来たりした。雨も降り出し、かなり寒くなってきた。一度希望をもって進んでいた道がまたストンと終わってしまったとき、僕はもうあきらめようと本気で思った。エルムハーストアベニュー駅を降りて2時間が経過していた。
 しかし、あきらめようと思った瞬間、猛烈な悔しさが込み上げてくる。もう二度と来ることはないかもしれない。後悔するのは目に見えていた。駅に帰ろうとした足を何とか戻し(もはや駅に戻るのも困難だったが)、またクイーンズをさまよった。20分くらいあてもなく歩いていると、不意に「84th ST」の文字が僕の目に飛び込んできた。そこからは早かった。79番通りがあり、すぐに52番地があったのだ。これはもう執念が呼んだ偶然としか言いようがない。

 そして、ついに昔一家で住んでいた家にたどり着くことができた。所要2時間半。近所の人に住所のメモを見せると、間違いないと言う。家の前で「Excuse me」と何度か言ってみたが、誰も出てこない。それでもたどり着けただけでうれしかった。周囲の写真を撮って帰ろうと思い、裏手にまわって驚いた。写真でしか見たことのなかった風景が目の前にあるのだ。
 物思いにふけりながら近所をぐるりとまわって、さて帰ろうと思ったとき、並びの家から白人の中年男性が外に出てきた。他に人は歩いていないし、たぶん怪しい人間に思われると思ったので、こちらから話しかけてみた。すると、確かにそこの家には中国人の夫婦が住んでいる、と言う。今は不在かもしれないけど、夜には帰ってくると思うよ、とも。その中国人がウォンさんかどうかもわからないし、どうしようと悩んでいたら、空っぽだと思っていた家の中から人が出てきた。なんとウォンさんである。写真でみたことがあるからすぐにわかった。
 僕は興奮気味に事情を説明した。最初は困惑気味のウォンさんだったけれど、「確かに30年ほど前、日本人一家に家を貸していた…」と過去のことを思い出し、「とりあえずうちに入れ」と言ってくれたのだ。

 家の中に入ると奥さんがいた。僕は2人に紙を使いながら必死に説明した。家族構成と名前、住んでいた時期、当時の両親の仕事等々。そして、ようやく2人は全てを理解し、「あの赤ちゃんか、よく来た!」と感激してくれた(ちなみにやはり最寄駅は違ったらしく、エルムハーストアベニュー駅からだと40分はかかるとのことだった)。ひとしきり思い出話を語ってもらった後、僕は父があの後亡くなったことを告げた。やはりそれを言わないのは不自然な気がしたからだ。彼らはひどく残念がってくれた。
 それからウォンさんはかつて僕らが住んでいた家(ウォンさんの家の隣にある)を案内してくれた。今は大学生が数人で借りているらしく、彼らに許可をもらって僕は写真を撮った。驚くことに中も昔と全然変わっていない。まぎれもなく僕の1歳だか2歳だかの誕生パーティーが行われた場所だった。ウォンさんは僕のそばで、「ここでお母さんは料理を作ってたんだよ」とか「君のお父さんはここでよくギターを弾いていた」とか「君のお父さんはとにかくビールを飲むのが早かったんだ!」といった当時のことを教えてくれた。父の姿が浮かぶようだった。こんな遠い場所に父のことを記憶してくれている人がいる。それが、本当に嬉しかった。
 「まだ時間はあるか?」とウォンさんは、僕をお昼に誘ってくれた。それから3人で近くの中華料理店に入った。ビールで乾杯した後、ウォンさんは高価そうな料理を次々に注文する。僕はお腹がペコペコだったのでガンガン食べた。最高に美味しかった。食べながらまた当時の話をした。ウォンさんの奥さんはあまり英語が得意ではないようだったけれど、「Today happy day」「Today happy day」と涙を流しながら何度も僕の訪問を喜んでくれた。こちらが泣きそうだった。
 写真も撮りひとしきり料理を食べ終えた頃、ウォンさんは店のスタッフにまた料理を作らせた。それは、僕のためのお弁当だった。「今夜はこれを食べなさい」と容器に入ったかずかずの料理を手渡された。お会計は制され、すっかりご馳走になってしまった。

 店を出ると、奥さんは家に帰ると言う。ウォンさんは僕を宿の近くまで送ると言った。奥さんと別れてから、僕とウォンさんは地下鉄に乗りながらまた色々な話をした。ウォンさんは40年前、台湾から渡米して貴金属のお店を営んでいたそうだ。72歳、リタイアして悠々自適に暮らしているようだった。
 そして、宿の最寄駅に到着。交差点でお別れということになった。連絡なしの急な訪問だったにもかかわらず、ウォンさんは僕のことを本当に優しく迎えてくれた。しかもお土産ももらったし、ランチも電車代も何から何までお世話になりっぱなしだった。僕は心からの感謝の思いを伝えた。ウォンさんは握手をしてきて、その後何も言わず僕の肩を抱いてくれた。それから駅の方へ向かった。

 交差点から地下鉄の入口まで30メートルくらいだっただろうか。僕はもしかしたらウォンさんがこちらを振り向くかもしれないと思い、ずっとウォンさんの後姿を見ていた。しかし、ウォンさんは真っ直ぐに歩き続け、地下鉄の階段を一段また一段と下がり、ついに見えなくなってしまった。どういうわけか、それが嬉しかった。
 
 滞在初日から天気がぐずつき、この3日目も午前中から昼にかけては雨降りだったけれど、交差点の上にはきれいな青空が広がっていた。ウォンさんがいなくなった後も、僕はしばらくその場に立ち尽くし、嘘みたいにくっきりした青い空を仰ぎ見ていた。それから僕は、「こういうことってあるんだなあ」と思いっきり独り言を呟いていた。

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